わたしには三人のおばあちゃんがいます。みんな死んでしまったので。。いました。
血がつながったおばあちゃんが二人、もうひとりのおばあちゃんが私を食を通して育ててくれました。
間違いなく、私のからだのベースはおばあちゃんのご飯でした。
和食中心の、ほとんどが手づくりだった。
炊き立てのご飯、とうふとわかめの味噌汁、おきゅうとに大根おろしとしゃけ、焼き海苔と青い小葱入りの納豆が毎朝食卓に並んでいました。
味噌汁の前の晩にいりこを水につけておく役は小さな自分にまかせられていました。
小学校に上がる頃には卵焼きが得意料理になった。
たまごは二つ三つに砂糖は思い切り、塩しょうしょう水を加えるとふんわりなるよと習った。今はなかなか見られない鉄の卵焼き器に油をひいて立ちのぼる匂いが懐かしい。強火のまま集中して仕上げる。じゅぅ〜っの音、たまご液のぶくぶく、焦げ目とつや。甘い湯気。うまく出来た時は嬉しくてにんまり。
私は一生分の卵焼きをあの時に焼いてしまったように思います。
脂のしみ込んだあの卵焼き器が、味のしみ込んでそうな菜箸が、塗るタイプの脂が本当に懐かしいです。
おばあちゃんは常に幾つかの出汁を冷蔵庫にストックしていた。
椎茸の出汁、うどん、天つゆ、など料理に応じて使い分けた。
無添加の出汁数種類。。。旬の野菜に焼き魚、骨まで食べられる鰯の甘露煮は当時良さが分らずテンションだだ下がり、だけど今はとんでもなく有り難い事だったんだと痛感しています。
まったく気がつかなかった。
よく一緒に散歩へ出かけ、よもぎを摘んで蒸しまんじゅうのおやつを作る事もありました。
つくしを一緒に見つけるのも楽しかった。
庭のドクダミやアロエで手当てされた事もある。家庭菜園でナスやトマト、あとはなんだっけ。。
料理だけでない。縫い物をしたり、そうじは丁寧だった。洗濯板を使っていたし、おじいちゃんのシャツの糊付けもしていた。
生活を何かに頼らず自分の手でやっていた。
おばあちゃんってスゴい。
白菜の漬物、らっきょうに梅干し、ぬか漬けも絶品だった。
梅干しは小梅派。紫蘇が多めの濃い梅干しだった。
料理の味付つけは甘め。
長崎の島原のひとだったので、島原の味付けだったのだと思う。
こないだ大好きなうどん屋でのこと。そこの出汁があまりにも美味しかったのでついおばあちゃんの話をしたら、店主が
『出汁をいくつもとるのは手間のかかる事、素晴らしいおばあちゃんだったんですね』
と言われはっとしました。
その店主も長崎のひとです。
そのお店の事もいずれ書きたいと思います。
おばあちゃんが料理をつくれなくなった時、私はおばあちゃんの手から離れて暮らしていました。
おばあちゃんのご飯が食べられなくなることにショックを受けたのか受けなかったのかすら覚えていません。
薄情にも私はおばあちゃんから気持ちが離れていました。
私は遊ぶのに夢中でそれどころでなかった。ごめん。
昼夜が逆転してたばこも吸うようになった。じょじょに米を食べなくなった。
パスタばかり食べて。
いつの間にか気分の波が激しくなって、明るさと闇のどちらも大きく深くなった。
自分でコントロールが出来なくて今でも苦しい時期は外に出られない。
闇の波の時にふと酒粕!となったのですがこの話はまたいずれ。
今日はおばあちゃんの事を。
おばあちゃんが死んでいっとき経って、私たちはとんでもない事に気がつきました。
おばあちゃんのレシピを誰も受け継いでいない。。。と。
とても申し訳なく思いました。
クソ真面目だけど自由人。遊びにも真面目だった子連れのおじいちゃんに惚れたばかりに
長崎の島原から嫁に来たおばあちゃんは子どもを産むことを許されず、設けることもなく
血のつながらない家族のためにせっせと人知れず漬物をつけ、手のこんだご飯をつくり続けた。
手をぬかず。。
おばあちゃんが死んで二十年くらい経ち、私も小梅で梅干しを漬けますがあの味ではない。
思い出して食べることは出来ても、味の再現は難しい。
でもほんとうによく私はおばあちゃんのご飯を思い出し食べます。
つくしとよもぎを摘んだ事を最近思い出した時、
なんて豊かで幸せな思い出なんだろうと有り難さに打たれました。
私の今のからだは酒粕がベースでできていますが、
おばあちゃんのご飯とおばあちゃんと過ごした豊かな時間は間違いなく私の大きなベースであります。
おばあちゃんのご飯で最強の腸内環境だったはず。途中駄目になった時もあったけど住み着いた微生物が、受け継いだ微生物がわたしを守ってくれてたんじゃないかなと今感じています。
微生物ありがとう。
おばあちゃんありがとう。
きょうはこれにて。